重力

IMGP2701.JPG

PENTAX K100D, smc PENTAX-FA 28-105mm

目が覚めたら、高井戸のマンションのソファに寝ていた。
前日の記憶はない。
たぶん、いつものように暮らし、いつものように眠ったんだろう。

目覚めの悪い朝だった。
起き上がってみたら、辺りは洗濯物やらボールペンやらメモ書きやらが散らばっていて、
薄明かりが雨戸の隙間からそれらを照らしていた。
ぼくは一端ソファの上に立ち上がり、床に足の踏み場を探し、子供のように飛び降りた。
そう、たぶん、いつものように。

朝は、雨戸を開けることから始まる。
南向きの出窓から開けていく。
今はそんなに早い時間でもあるまい。
昼に近い陽の光を浴び、見慣れた景色…ぼくがこの部屋に住もうと思ったきっかけであるお気に入りの景色を見て、すっきりと目覚めようではないか。

出窓へと手を伸ばすと、まだ薄暗いそこには、古びた水道場があった。
水道場は手入れされているように見えるが、
石鹸やタオルもなく、いつから使っていないのかわからない。
そもそもここで手を洗ったことがあっただろうか。

そうして、無骨な木の雨戸に手をかけるが、鍵のように組み合わさった部品が、ポロリと落ちた。
手にとってみると、水を含んで少し膨らんでいる。腐りかけているのかもしれない。
白状すると、雨戸があんな古臭い感じだったとは、意外だった。
もっとすっきりとした金属製の雨戸の感触が、
毎日それに触れているはずの手に残っている。

鍵のことは、大家に言わねばなるまい。
ぼくは、好きな出窓から光を入れることを諦め、他の窓を探した。

しかし、ぼくを目覚めさせてくれる窓はどこにもなかった。
正確には、窓は、あった。
当の出窓の真上に、まったく相似形の、出窓と水道場と、そして、古くて開かない木の雨戸。
それらはきっちりと閉ててあり、到底開けることはできなかった。
足をぶらぶらさせながら上半身を水道場の縁に乗せて、どうにか手が届きそうな雨戸。
ぼくは、そこも諦めざるをえなかった。

仕方なく、壊れたひとくみの鍵を持って、部屋から出る。
隣の部屋、台所だと思っていたところには、見知らぬ若者がふたりで何かを話していた。
見知らぬ人が自宅の中にいることにちょっと驚いたが、ここは共同の台所だったか。

家具をほとんど置いていない、木の床の炊事場には、日が差しているのか、
白っぽい壁紙がやわらかく反射し、あたり一面をやさしく照らしていた。
ふたりの若者は、普段着で向かい合い、ごく些細な話をしているようだった。

ふと見ると、開け放された小さな窓の向こうに、
瀟洒な住宅街が…出窓だらけの家々が、きれいな木立の中にたくさん並んでいた。
今日は晴れているようだ。

高井戸という立地が気に入って、越してきたマンション。
こんなに木造部分が残っていて、共同スペースもあるのだから、
アパートとか下宿屋といった方が正しいのかもしれない。

大家を探して、共同スペースをあちこち歩いてみた。
しかし、うなぎの寝床のような部屋に、同じような若い連中がちらほらいるだけで、
鍵を見せる相手をみつけることができなかったし、
なんだかアレは幻だったような気もしてきて、これもすぐに諦めた。

部屋をもっと片付けるべきなのかもしれない。昨夜は酔っ払ってたんだったか。
今日は街へ出よう。高井戸からなら、吉祥寺も近い。

若者のたむろする共同の玄関を出て、むき出しの階段を降りてみると、
デパートやら企業やらでごみごみとした大通り沿い、
ぼくのマンションの3階あたりにエアバスが来ていて、すぐにでも発車しそうだった。

騒音と排気ガスの中、ぼくは若い連中にまざって、
手すりの心許ない細い階段を上層階から一気に駆け下り、
通りの雑踏を下に感じながら、エアバスへと乗り込んだ。
エアバスは、下界の渋滞とは無縁だ。
吉祥寺どころか、一瞬で恵比寿まで飛んでいく。

ぼくはちょっとの間、激しい揺れの中にいたが、すぐに恵比寿に着いてしまい、
吉祥寺のことも諦めることにした。
もちろん、恵比寿だって十分に文化的で洗練されている。
立ち並ぶ高層の古いデパート、何度もリペイントされた白い壁、安食堂の幟(のぼり)、
裏道、ストリートミュージシャン。

ぼくは、人ごみを避けたスタジオの裏で君といた。
辺りにゴミの散らばった狭い通り沿いの、薄汚れたベージュのビルの前で、
君はパーカッションを叩くストリートミュージシャンの気を引いていた。

ぼくは、小学生の木工くらいにしか見えない、無骨で朽ちかけた鍵ひとくみを取り出した。
鍵の片方が、ピンポン球大の球形をしていた。

唐突な感じで、ぼくはぽっかりと空間に浮かぶ球のことを思い出していた。
浮かんではいるが、飛び出したりはしないのは、そこに重力があるからだ。

水道場の多い、ぼくの家。
蛇口から球形をした水が連綿と滴り落ちていく。
それはたぶん暗示だ。
ぼくは絶えず失っている、ということの。

 
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